「八十六代四條院天福元年癸巳十二歳にして清澄寺に登り、道善御房の坊に居て学文す」
(波木井殿御書)

天福元(一二三三)年、日蓮大聖人さまにとって最初の、そして大きな転機が訪れました。同年五月十二日、御歳十二となられた善日麿は、住み慣れた生家やご両親のもとを離れ、いよいよ清澄寺へと修学に上がられる時を迎えられたのです。
清澄ご入山の経緯に関するご文章は、ここにご紹介した『波木井殿御書』や『法華本門宗要鈔』などにわずかに見られるのみで、やはりご自身ではその子細にあまり触れられていません。日蓮さまのご一代記も種々ありますが、いずれも「十二歳で清澄へ上り、道善房に師事し・・・」といったご紹介程度のようです。それらのお話によりますと、幼き日蓮さまが清澄へ上がられますと、すでに一坊の主としての道善房が、山内へお務めになられていました。かくしてお二人は出会われ、師弟の間柄となられました。と、だいたいこのようなイメージが浮かびますが、それはいささか無理があるようにも思えます。
再三申し上げましたが、いかに東国の辺境にある寺とはいえ、清澄山は宝亀二(七七一)年に不思議法師が開いたとされる修験の霊場です。善日麿ご入山の時代には、既に四五〇年以上もの歴史を誇る古刹、当国(安房)随一の学問所との誉れ高きお山ですので、どこの誰とも知れぬ者、ましてや「旋陀羅が子」など入山を許されるわけがありません。
いかなる手引きがあってのことか不思議な限りですが、やはりそこには師となる道善御房の、何らかのお計らいがあったのではないでしょうか。説によれば、道善房はちょうどこの年に西蓮寺より清澄寺諸佛坊への栄晋があったとされます。偶然と言うにはあまりに良いタイミングですよね。
おそらく道善房は、雪女はじめ皆々の初等教育が見事になされた様子を見て、「そろそろ好き頃やもしれぬ・・・」との思いを以て、万事準備を整え、善日麿をお山へお迎えしたのかもしれません。
そしてついに、ご入山の日を迎えました。晴れの門出ではありますが、いつまた会えるか知れぬ両親との別れに、さしもの神童もその寂しさを隠すことはできませんでした。今なお「見返り坂」として伝わる小湊の道を、お見送りのご両親のお姿をいくどもいくども振り返りながら、清澄山へと向かわれたのです。彼の地にたたずむ高生寺の日蓮さまご尊像は、この伝承にちなみ「見返り祖師」として今も親しまれています。
イラスト 小川けんいち




