とにもかくにも、四大元素を司る大天使たちさえも従える唯一神なればこそ、その神の名のもとに命じるならば、(唯一神の宗教によって神の座から追放された)地獄のデーモンたちも、術者に従う以外に道はなし・・・、と西洋では信仰されていたわけなんですね。
それも「神(エロイム)よ、燃え盛る(エッサイム)炎の神よ」と、実名そのものは口に出さずとも、(と言うか、そもそも固有名詞は不明なのですが)一般名詞たる神と唱えるだけで(彼らにとって神と言えば、唯一ただお一人なわけですから)充分なんですから、「じゃあ万が一にも固有名詞を出したら効果何倍なの」と言いたくなるほど、唯一神のみ名には、絶大なる力があると信じられていたことになるんですね。
そうです。再三再四申してきたように、名前とは人やモノを便宜的に識別するための、単なる目印や表札ではなく、その人、そのモノの本質を司るもの。名前こそが、実はその人、そのモノの、存在そのものを集約したものなのです。
日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽して、一も残さず。月氏の両字にあに七十ケ国なからんや
四信五品鈔
殊に人にとっての名前は、その人の魂、命とダイレクトに繋がるもの。故に秀吉たちは、信長公のことを右府様あるいは上様とは呼んでも「信長様」とは絶対に呼ばず、官兵衛たちは秀吉公を、羽柴筑前守様だの太閣殿下とは言っても、「秀吉様」などとは呼ぶわけもなかったのです(親は官兵衛と字(通称)、息子は長政と諱(実名)で呼ばれる親子なんて、ホントはいませんよね)。
だって人の本名を呼ぶなんて、人の寝室にズカズカ侵入することよりも、人のケイタイを勝手に見まくることよりも、いえいえ、人のPCのデーターを勝手に閲覧しまくることよりも、もっともっと失礼なこと。部下や目下の者ではなおさらのこと、絶対なるタブーだったのです。
ケイタイやPCを勝手にあつかっても、それは取り敢えずプライバシーの問題にとどまりますが、されど名前となると、それは命に関わる問題。
九識霊断法にしろ、ご祈祷やご祈願にしろ、まずは請断者や祈願者の名前を確認することが大前提のように、妖術や呪殺司る者も、その標的となる人の名前を知ってこそ、その術も発動するもの。名前を知り唱えることで、その相手の魂、命に直接アクセス出来るのです。
昔の方々はその事実を知っていたからこそ、字や役職等々の長ったらしい名前でもって実名を隠し、また女性は結婚をしても、夫以外にはみだりに実名を明さなかったと言います(故に歴史上の有名人も、その奥さんの多くは名前も伝わってないらしいのです)。
されど、本当の名前が弱点となるのは拙き人間なればこそ。人智を超えた神佛においては、その真実の名を知ることは、その偉大なる力にダイレクトにアクセスすること。そう実は、お題目『南無妙法蓮華経』こそは、法華経に説かれし至高の存在の、その尊き名前だったのです。
無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり
御義口伝
イラスト 小川けんいち
元霊断院主任
福岡県妙立寺前住職