日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
法華経のお話 法華経のお話

#069
無量義経の段その二十七

大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

1.虎は死して皮を残し、人は死して名を残す
(欧陽脩)

イエス・キリスト

そうは言っても、後世に残った名が、本人自ら名乗っていた名前ではなく、死後に贈られた名前の場合が多いというのも、意外なる歴史の真実。

そう言えば、あのイエス・キリストでさえ、その当時の名と言えば「ナザレのイエス」。ご存知の通り、ナザレのイエスと言えば、一世紀の中東、ガラリアの地(今のパレスチナ)において、病気治しの奇跡で多くの信者を集め、ユダヤ教内における新興宗教的な勢力を作り上げた人物。

それゆえにイエスは既存の権力と対立し、十字架に架けられて処刑された(俗に十三日の金曜日だったと言います)わけですが、その処刑の日から三日後、復活したイエスを目撃する弟子たちが続出します(この復活の日を祝うのがイースターです)。

このイエスの復活という神秘体験を感得した弟子たちは、導師イエス(ジーサス)こそは、実は救世主(メシア=クライストすなわちキリスト)だったと主張し始めます。これこそが世界最大の宗教となるキリスト教の起こり。

佛教は佛陀が唱えた宗教ですが、キリスト教は、厳密にはイエス・キリストが唱えた宗教ではなく、「ナザレのイエスはキリストだった」と信じた人々が起こした宗教なわけですね。

ですから、イエス・キリストと言うのは、本来は「イエスは救世主である」、あるいは「イエスは救世主だと信じる」という意味。

妙法蓮華経に身も心も捧げますの「南無妙法蓮華経」や阿弥陀佛に身も心も捧げますの「南無阿弥陀佛」と同様、信仰者の信心を現わす言葉なのです。

本来は、キリスト教信者内でこそ通用すべき言葉のはずですが、今やキリスト教以外の人々にも広く伝わり、名前そのものになってしまっていることは、皆さんもご存知の通り。

何しろ、もしも、もしも万が一にも、イエスがホントのほんまにキリストだったとしたら、キリスト教の教えを信仰せず、ハルマゲドンの後に永遠の地獄の業火に焼かれ続けることになるはずの私たち佛教の徒ですら、「イエス・キリスト」と平気で呼んじゃているのは、おかしな話なんですね。

2.だが人よ 名を問うなかれ
(サスケOP)

東照大権現

東照大権現と言えば、「日光を見ずして結構と言うなかれ」でお馴染みの、日光東照宮に祀られる徳川家康の神号。

これも家康亡き後の贈り名になるわけですが、現代においては、その当時の名、徳川家康を以て広く皆に知られるところでしょう。

豊国大明神の名を持つ豊臣秀吉も、総見院殿贈大相国一品泰巌大居士(あるいは天徳院殿龍厳雲公大居士、または天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門)たる織田信長も、今となっては、死後ではなく生きていた時の名前で有名だと言えるでしょう。

ただし、当時その名が使われることは、まず滅多にはないことでした。

殊に彼らの家臣が、「信長様」や「秀吉様」と話しかけるなんて、死を覚悟でもしないかぎり、絶対にありえないことだったのです・・・。

そうです、死後の名前ではなく、ちゃんと存命中の名前で歴史に名を残した方々の場合、むしろ当時はその名前で人から呼ばれることが、まずあり得なかったという、いわば逆のパターンも、結構あるわけです・・・。

※この記事は、教誌よろこび平成25年12月号に掲載された記事です。

イラスト 小川けんいち

塩入幹丈

元霊断院主任

福岡県妙立寺前住職

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