日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
法華経のお話 法華経のお話

#068
無量義経の段その二十六

大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

1.黙れ! 今の俺を昨日までと同じに思うなよ!
(剣鉄也)

最澄上人

智顗(ちぎ)禅師は滅後に天台大師と呼ばれるようになり、最澄上人も、その滅後に傳教大師の名が贈られました。 かように私たちが歴史上の人物の名前だと思っているものには、実は本人の生前中の名前ではなく、その死後に付けられたものも多々あるようです。

一〇〇パーセントそれに当たるのが、日本の天皇陛下でしょう。 私たちが歴代天皇一覧で知る御名は、まず全てが、その業績に因むか、あるいは、お住いになられた場所に因んで崩御後に付けられたものです。

殊に、御遺文(大聖人の著述の総称)でもお馴染みの、神武天皇・神功皇后・応神天皇・崇峻天皇等、古代の天皇(神話の世から奈良時代初期までね)の御名に至っては、奈良時代後期にまとめて贈られたもの。

ご本人の時代から早い方でも数十年、初期の天皇に至っては崩御後、数百年も後になって作られた名前なわけですね。

ですから、たとえば「大化の改新を断行された中大兄皇子は、即位して天智天皇になられた」や「天智天皇の御子の大友皇子を、壬申の乱で打倒された大海人皇子は、即位して天武天皇となった」等といった、よく聞くような説明も、厳密には違うわよ、なんですね。

2.死者にたいする最高の手向けは、悲しみではなく感謝だ
(ワイルダー)

お隣の震旦(しんたん)の王様や皇帝で、御遺文でもお馴染な方々と言えば、同体異心の残念な大軍の長たる殷の紂王、異体同心の精鋭を率いた周の武王、ロイヤルガードに守られたるパルパティーンよろしく、四皓(しこう)に囲まれし漢の恵帝、そしてあの世界三大美女の一人、楊貴妃のお相手だった唐の玄宗等でしょうか。

実はこの方々のお名前も、やはりその崩御後に贈られた名前。

紂王(ちゅうおう)は子辛(ししん)、武王(ぶおう)は姫昌(きしょう)(なんかギャップが凄いですね)、恵帝(けいてい)は劉盈(りゅうえい)、そして玄宗(げんそう)は李隆基(りりゅうき)が生前のお名前です。

そう、亡くなった後に生前とは違う名前を贈るのは、どうやら東亜細亜(あじあ)共通の伝統なんですね。(ていうか、ここ震旦から始まったんでしょうけどね)

贏政

3.俺は中華を統一する最初の王になる
(贏政)

しかし流石に四千年以上の歴史を誇る震旦だけに、時にはこの伝統に異を唱える人も出てくるもの。

それが春秋時代・戦国時代と続いた戦乱を勝ち抜き、遂に震旦初の帝国を打ち立てた、秦の始皇帝。

なにしろ、気に入らない本は全て焼き捨てるという、閲覧制限も真っ青なことを断行し、あまつさえ学者本人たちを纏めて生き埋めにしちゃう前代未聞の改革者。

彼自身の本当の名は贏政(えいせい)ですが(キングダムでお馴染みですね)、自分の崩御後に勝手に名前を変えるのは怪(け)しからん、自分が最初の皇帝なんだから始皇帝でいい、次からは二世、三世と付けていけばいいだろうと、名前の変更をやめさせてしまったのです。(しかし彼は帝位に就いてからは、単に皇帝と呼ばれていたのですから、結局は皇帝から始皇帝に変わってるんですよね)

しかし、そんな秦も、始皇帝の左道(悪政)ゆえに、その崩御後にあっさり崩壊したことは、皆さんご存じの通り。伝統への挑戦もあえなく崩れ去ったわけです。

そうです、亡き方を偲び、死後に新たなる名を贈って供養することは、東亜細亜のいわば伝統。

死んだ後に戒名法名を付けるなんて間違っている、なんて言い方も、昔からちょくちょくあるものですが、実は死後の戒名法名は、佛教の教えと東亜細亜の伝統(それも元々は一部の人たちだけの特権だったもの)のハイブリットなんですよね。

※この記事は、教誌よろこび平成25年11月号に掲載された記事です。

イラスト 小川けんいち

塩入幹丈

元霊断院主任

福岡県妙立寺前住職

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