大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸輪之王。
無量義経徳行品第一
絶地(ぜっち)・翻羽(ほんう)・奔霄(ほんしょう)・越影(えつえい)・踰輝(ゆき)・超光(ちょうこう)・謄霧(とうむ)・挟翼(きょうよく)の八頭の神馬・穆王(ぼくおう)八駿を駆使し、黄河の大地を高速で駆け巡ったと伝えられる周の穆王。
震旦(しんたん)の人々にとって幻の山と噂された崑崙(こんろん)山すらも、八駿に牽かせる馬車に乗れば、あたかも隣近所に行くがごとし。
崑崙の地にて西王母(全ての女性仙人を司る大仙女)と面会したという穆王。
さらに彼は震旦の人々にとって崑崙山以上に謎の土地、はるか西方の印度、王舎城(おうしゃじょう)は霊鷲山(りょうじゅせん)へと八駿のコースを取るのでした…。
王宮での穆王は菊慈童(きくじどう)という名の美少年を常に侍(はべ)らせ、殊のほか寵愛したといいます(すいません!ソクラテス・シーザー・劉邦・信玄・信長・家光等々と、キリスト教が広まる以前の国々は東西問わず、美しければジェンダーに拘らない英雄、賢者は多いものなんです…)。
穆王から目に入れても痛くないほど可愛がられた菊慈童。
しかしそれが気の緩みを生んだのでしょうか、あるいは一人だけへの寵愛が、他の嫉みを招いたせいでしょうか、やがて菊慈童は王の枕を股越した不敬の罪を問われ、流罪の刑を受けることとなりました。
行き先は山。いまだかつて生きて帰ってきた者は一人もいないという、絶望の流刑地です。
如何に大事な美少年とはいえ、王自ら刑罰の決まりを変えては臣下に示しがつきません。
泣く泣く菊慈童との別れを決意した穆王は、せめてもの最後の手向けとして、それまで胸中に秘めて洩らさなかった、あの四海領掌の偈を密かに教え伝えるのでした…。
イラスト 小川けんいち
元霊断院主任
福岡県妙立寺前住職