岩手県遠野市法華寺聖徒団
阿部 是眞
人は悲しいこと、苦しいことが起こると、なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか。世界の中で自分が一番の不幸者だと感じてしまいます。そのような事が続くと閉ざされた心になり、結果、自分のことしか見えなくなり、他人への思いやりや隣人の苦しみを共有できなくなってしまいます。
そのような閉ざされた心の状態になると、例えば家族から「テレビつけっぱなしだったよ。見ない時は消してよ。」などと言われた瞬間に「今消すところだったんだ。気づいたら消せよ。おまえらだってつけっぱなしの時ぐらいあるだろう」などと言い返してしまったり、内心では自分の方が悪い事を分かっているのに、自分の非を認めたくないので突っ走ってしまったり、また他の人から注意を受けたとき、相手に対して負けたくない思いで屁理屈返してしまった経験はないでしょうか。少なくとも私はあります。我に返ると後悔の念にかられます。所謂、我が強い人です。
自分の周りに我という自己中心的な殻を作って閉じこもり、周りの意見を聞こうとせず、その閉ざされた殻(心)のせいで自分自身の心の自由を失ってしまうと、周囲又は自分自身を客観的に見ることが出来なくなります。すると何に対しても不満がでて、些細な事で感情を表に出し、ますます自分を苦しめていきます。
これとは反対に、家族から指摘されたとき「ごめんごめん、ありがとう。次から気をつけるね」という感謝の言葉があればどうだったでしょうか。お互い嫌な気持ちをすることがないのではないでしょうか。感謝をすると気分が晴れ晴れし、開かれた心になり、心が大きくなります。
閉ざされた心の原因は三つの煩悩です。これを「三毒」といいます。
三毒とは
自分の立場は後にして周りの事を思い誰にも隔たりの無い開かれた大きな心になると「感謝する心」「敬いの心」が生まれてきます。この心を持って修行された方が法華経の二十番目のお経に登場されます常不軽菩薩様です。
常不軽菩薩品には
我深く汝等(なんだち)を敬う 敢えて軽慢(きょうまん)せず 所以(ゆえ)は何(いか)ん 汝等皆菩薩の道を行じて 當(まさ)に作仏(さぶつ)することを得べし
と説かれております。常不軽菩薩様は出会う人すべてに対し、一切の差別する心を持つこと無く、例え石をぶつけてくる人に対しても、「誰もが仏になれる素質を持っている。だから私はあなたを深く敬う」と、手を合わせ拝むように但行礼拝を続けた菩薩様です。
不軽菩薩の人を敬いしは、いかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は、人の振舞にて候いけるぞ
崇峻天皇御書
このように常不軽菩薩様の心に近づかせていただくために倶生神月守を着帯し手を合わせ「感謝の心」「敬いの心」でお題目を唱えることによって「慈悲の心」が生まれ、様々な事を受け持つことが出来たときこそ、仏様の道へと進むことが出来るでしょう。
イラスト 小川けんいち