日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
よろこび法話 よろこび法話

#011
お題目の功徳は、大きく・やさしく・強いものです。

日蓮宗霊断師会 総務部 部員
東京都 感通寺聖徒団副団長
新間 正興

私の好きな言葉があります。それは「宇宙兄弟」という兄弟で宇宙飛行士を目指して月に行くというお話の中にあります。

宇宙飛行士を目指す主人公は、合格できる最終面接の際に、面接官から個別で一つだけ質問をぶつけられます。「死ぬ覚悟ってある?」

お題目の功徳は、大きく・やさしく・強いものです。

主人公はすぐさま、とりつくろいながら心証を害さないように、愛想笑いで答えます。

「もちろん、ありますとも」と答えますが、「すみません、嘘つきました。本当は死ぬ覚悟できてないです。多分『こりゃ死ぬな』って瞬間がきたとしてもギリギリまで生きたいって、そう思っていたいです。」

その質問は、面接官自身が以前問われた質問だったのです。一つのミスで命の保証のない宇宙では、仲間に自分の背中を任せなくてはならない。その時に信じることのできる人物は、死ぬ覚悟があると口で言う人ではなく生きる覚悟のある人物でなければならない。

主人公はこのことで信頼を得て、晴れて宇宙飛行士となるのです。

私はこの「多分『こりゃ死ぬな』って瞬間がきたとしてもギリギリまで生きたいって、そう思っていたいです。」この言葉が好きなのです。

これは一つの話ですが、「生きることへの覚悟」が大切なのだと教えてくれています。

お釈迦様は人の苦しみを説かれました。

それは、「生・老・病・死」

人は生きながらに、老いる苦しみ・病気になる苦しみ・死ぬ苦しみの中にあります。しかしながら、一番の苦しみは、苦しみを抱えながらも生きていくことの困難さ、大変です。その中に私たちは、喜怒哀楽、一喜一憂しながら生活をしているのです。

大切な人との別れ、病気で苦しみながら生きていく大変さ、大切な人が苦しんでいるのを見なければいけないはがゆさ。これは、私が述べるまでもなく、お一人お一人が経験された、または今、されている方もいらっしゃることでしょう。どんなに理屈が合っていても、理解し納得することのできないこともあります。

私が霊断師となって、はじめてご相談に来られた方は、六十三歳の洋子さんという近所にお住まいの方。

病名は「末期ガン」。とても品のよい方で、病気のわりにはとても明るい方。九識霊断法では、一生懸命に倶生神の加護におすがりすることが大切であり、病気も一時、快方に向かうということでした。

洋子さんはそれを聞いて喜び、その日からお守を肌身離さずに着帯され、家族にも着けるように、袋を持って行かれました。

その日から朝勤ではご祈願を行っていましたが一週間後、病院に入ってからは、抗がん剤の副作用から歩くこともままならないようになりました。しかし、秋のお彼岸には、自分で歩いて本堂に参詣され、古くなったお守を御宝前に納め、

「仏様・日蓮様・お守様のおかげですっかり元気になりました。いつも拝んでくれて有難う。本当に信じられないくらい歩けるようにもなって、すがすがしいわ」

と、病気になっても負けない心と、「ありがとう」を欠かさない姿に、感動したことを覚えています。

その年の十一月一日より私は日蓮宗大荒行堂に初行として入行しました。中では洋子さんのことが気になりながらも、毎日過ぎていき、二月十日、成満の日が洋子さんのご命日となりました。

お題目の功徳は、大きく・やさしく・強いものです。

私は正直、お経・お題目が自信をもってお唱えすることが出来なくなりました。大聖人の教えは「法華経の行者の祈りの叶わぬことはあるべからず」そう書いてあるじゃないか。洋子さんは毎日、一生懸命、家でも病院でも肌身離さず、お守を握りしめながら、お題目をお唱えしながら、たたかっていたのに。

私にとっては、お題目をお唱えしてもしなくても結果は一緒だったのじゃないか。どうして、唱えなければならなかったのだろう。どこに救いがあるのかなんて分からない。本当に僧侶としては情けないことばかり考えていました。

一か月後、ご家族が来られた時に、本当に申し訳ないのと情けない気持ちでいっぱいでした。

その時、息子さんから手を力いっぱい握られ、「ありがとう、ありがとう。お上人のおかげで救われた」

私はビックリして聞き直しました。

「どうしてですか。お母様は亡くなられたのですよ」

「母の唯一の楽しみはお題目をお唱えしているときだったのです。家族も、病気をしながら、毎日のように決まった時間に手を合わせて、仏檀にお題目を一生懸命お唱えする姿にたまらない想いで見ていました。その姿を見て、それまでは他人事のようだった父が、何をするのでも率先して、母の介助をするようになり、夫婦本当に仲良くなりました。これまで家にずっといた弟は、働くようになりました。母は、実は自分の病気の事をお願いしていたわけではなかったのです。自分達、家族のことを一心にお祈りしていました。母は病床で、私に、やっとお願いが叶ったよ。私が死んだら、お寺さんに行って、お願い事が叶って救われました。ありがとうって伝えてね。そして、苦しまずに亡くなりました。本当にありがとうございます。」

その言葉を聞いて、私自身が救われました。お題目の功徳は、私が考えているよりも遥かに大きく・やさしく・強いものだったのです。

大聖人のお言葉の中に、

「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処(ごしょうぜんしょ)とは是なり。ただ世間の留難来たるとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。」

とあります。

私たちは生きている中で様々な難に何度も出会います。ただそれは私たちが生きている限り、賢い人も、裕福な人も、平等にやってくるのです。私たちは、難に当たった時には、一切の迷いを断じて、『南無妙法蓮華経』と信じ、唱え、持っていくことによって、倶生神の加護をいただき、仏さまからの救いをいただくことで、奇跡的な体験を通して、強盛の信力を生きる力に代えていくのです。

皆様の仏に向かってお題目をお唱えする姿、そのあなたの両肩には、神様がお乗りになられています。大難を小難だけではなく、自他ともに難を救いに変じてくださいます。

自分のお唱えするお題目に自信をもって、「有難い人生」とする為に、死ぬ覚悟ではなく、人を生かし生かされる幸せな人生を歩んでいきましょう。

イラスト 小川けんいち

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